少年ジャンプ+で2021年7月から配信開始し、一晩で閲覧数120万を超えた話題作、藤本タツキ先生の読み切り、『ルックバック』を読みました。
配信日にすでに話題になっていたのでその時すでに読みましたが、これは紙媒体として保存しておきたいと思い、単行本も購入しました。
このルックバックについて感想を書いていこうと思います。あらすじだとかは書かず、著作権があるのでキャプチャも載せません。ただの感想を書き並べた駄文です。読んでいない方は単行本を購入してもらえると嬉しいです。
話のリアリティ
主人公の藤野のキャラクターが妙にリアリティだった。
漫画を描いていて周りに称賛される。当初はそれが楽しくて、褒められることで自分を承認したいという欲求で4コマ漫画を描き続ける。
後半に記載されるが、藤野は漫画は描くのは全く好きじゃないと述べる。小学校の4年生当時の描く理由は上記の通りで、徐々に京本個人に認められる、京本という親友と漫画という世界を共有できる、そこに居場所を感じ、描き続けている。
小学生の行動原理なんてほぼ承認欲求の塊である。足が速くてみんなからちやほやされたい、テストでいい点とって親に褒められたい。
それが、藤野の場合、学年新聞の4コマ漫画だった。
普通の漫画家なら漫画を描く理由に高尚な、あるいは純粋な動機を描くだろう。
漫画を描いて世の中の人を笑顔にしたい、夢を与えたいとかだ。
ただ、藤野ははっきり言う。漫画を描くのは好きじゃないと。証拠に小学校6年のころ、努力しても努力しても京本の画力に追いつかないことを自覚したときは、漫画を描くことを辞めている。
と思ったら、京本が自分のことを先生と呼び、自分のファンだと言うと、喜びに満ち溢れ、また漫画を描き出す。
藤野にとって漫画は自己表現ではあるが、何かを伝えたいわけではない。誰かに認められたい、その手段の一つに過ぎない。
その行動原理にすごくリアリティを感じた。こういう女の子っていそうだよなと。
角度を変えて言うと、主人公らしさはない。
高尚さもなければ、純粋さもない。ただ、自分の漫画の面白さ、すごさに過剰に自信を持っている女の子。
京本に初めて会った日も普通に嘘をついている。
純粋さもないと書いたが、逆に純粋なのかもしれない。自分の行動原理にまっすぐだ。だから、初期の周りを見下したような態度をとっていたとしてもどこか憎めない。
しかも、京本の絵を初めて見た以後、絵の描き方を自分なりに研究し、スケッチブックを何冊も書き倒し、遊びもせず、努力をする。
わざとだろうが、初期の学校新聞時代の絵はそれほどうまくない。バトル漫画でいえば、初期はそこそこの実力の雑魚キャラだろう。
ただそれを自覚していなかった。だから、自覚したとき努力する。この点からすれば、弱い主人公が努力してのし上がっていく非常にジャンプ漫画らしい漫画であると言える。
それを漫画に置き換えて現実にいそうな人物として描かれている、そこにまず衝撃というかすごさを感じた。
キャラの表情
藤本先生は表情を描くのが本当にうまい。
初期の自慢げなどこか周りを見下した顔、京本の絵を始めて見たときの驚きの顔、京本に先生と呼ばれた時の喜びの顔。そして、京本の死を悟った顔。
この表現にこちらもキャラクターと同じ感情を生じさせる。京本の死を悟るシーンは喪失感でいっぱいだった。
確かに、これまでの仲間が死ぬ。読者に泣きを入れさせる定番シーンかもしれない。
だけど、この漫画は違う。もちろん展開も王道ではある。連載が始まるのにもかかわらず、美大に行くという京本と反対する藤野。これで二人の関係が終わっていいはずない。だけど、京本がせっかく初めて自立して決断した道であるからこそ、身を引いた。その後に事件が発生する。
藤野の喪失感がぐわっと伝わってくる。自分がもっと美大に行くことを拒んでいればこんなことにはならなかったかもしれない。漫画内では、そもそもスタート地点の京本を部屋から出す一枚の4コマ漫画を描かなければよかったと後悔している。
そこで、藤野の初めての涙のシーン。これは泣く。漫画を描くのはそもそも京本のためだったのに、その京本が自分のせいで死んでしまった。本来であれば、悪いのは当然犯人だ。藤野に何の非もない。そんなことはわかっている。でも、仮にあの卒業証書を渡す場面で自分が漫画を描いていなければ、京本は死ぬことはなかった。そう思わずにはいられなかった藤野の状況を鑑みると泣ける。この展開は卑怯なくらい辛い。
漫画に対する考え
この漫画は漫画に対して否定的な価値観に触れることがある。
先ほど書いた主人公藤野の漫画を描くのは全く好きじゃないというセリフだけではなく、小学校時代の藤野の友人からの絵を描いていたらオタクだと思われてキモがられちゃうよというセリフもある。
これを作者の藤本先生はどういう思いで書いていたんだろうか。
一読者としては藤本先生は天才だと思う。ファイアパンチやチェンソーマン、そして、このルックバックを読んで天才だと思わない人の方が少ないだろう。Wikipediaレベルの知識だが、藤本先生は幼少期から絵を描いていたとある。
今までそういう価値観に触れてきたのだろうか。自分の得意な絵、漫画を否定されてきた経験があるのだろうか。
勝手なイメージだが、漫画家が漫画家の漫画を描くのは自己投影が自然となされてしまうと勝手に想像している。
そのイメージの例として、同じジャンプ系列のバクマンが一番最初に挙がるだろう。これも勝手な想像だが、バクマンでは大場先生はシュージンに自己投影しているのではないかと考えていた。
だけども、バクマンでの主人公たちはやたらモテるし、成功もしてるし、ハッピーエンドにしてる。自己投影しているのではないかと思われるシュージンも頭がよく話を考えるのが得意、しかも友情に熱い。確かに、サブの主人公として物語を面白くするために見栄えよくはしているだろうが、考え方やキャラクターは大場先生にどこかしら似ている点があるのではないかと踏んでいる。
では藤野はどうか。小学校時代に友人にも家族にも否定されている。しかも、漫画を描くのが好きじゃない。極めつけに漫画を描いていたから最愛の親友が死んだ。
漫画に対する否定的なイメージが詰め込まれている。もちろん自分は漫画は好きだし、漫画家は尊敬に値する職業だと思う。いまだ世間ではこういうイメージを持たれていると感じているのだろうか。
ただ、物語上こうした漫画の否定的なイメージを構築することで藤野と京本の二人の間だけの世界観が出来上がり、ストーリーに厚みをもたらしている。
逆説的だが、漫画を否定する作品を作ることで漫画に対する評価を上げていると言える。これを読んで何も感じない人はいないだろうし、間違いなく名作だ。
このルックバックを多くの人に読んでほしいとさえ思う。
主人公が女性
この漫画を読んでいて不思議というかちょっと引っかかったのが、主人公が女性である点だ。
少年漫画の主人公の大半は、主人公が男性だ。
それは『少年』漫画だから、少年に向けた漫画だから当然ともいえる。
別に女性主人公の少年漫画が面白くないとかそれを否定するわけではない。
ただ一般的には男性が多いその事実がまず言いたい。
だが、ルックバックに至っては主人公が女性でよかったと思っている。
それは、物語の清潔さに関わる。
仮に、藤野が男性だったとしよう。
そして、ほかの設定はそのままだとすると京本はもちろん女性だ。
女性と二人で時間を共有し、漫画を描く。そこには少年漫画、いや少女漫画でもだろうが、独特の雰囲気が醸し出される。
そう、恋愛感情である。
女性である藤野はただ素直に京本に負けたくなかった、京本とともに漫画を描いていたかったという同性同士の関係性があってこそ、京本の死後の感情やストーリーに純粋さが残り、読みやすさにつながる。
ただ、男性が主人公で女性が相方、そして、その相方である女性が死ぬ。ここに恋愛感情を含めないことは果たして可能だろうか。別に現実に男女の友情は存在するだろうし、読者がみんなそんなこと考えないという人もいるだろう。話の論点はそこではない。
でも、恋愛感情が生じる可能性が残ること、そこに清潔さが失われる気がするのだ。好きな女の子に認められたいから頑張る、それは悪くない。ただ、漫画を描くこと、そこに向かうことの大変さという観点と恋愛という観点の二つが交わることによって、物語が複雑化する、いや、チープ化すると言ってもいいと思う。
あくまで、この漫画は漫画家になる漫画なのだ。そこがテーマであって恋愛はテーマではない。連載漫画であったのなら、長期的な展開も含め恋愛要素を含める手もなくはないと思う。だが、これは読み切りである。読み切り独特の伝えっぱなし感、言ってみれば、読者をいかに短期間に引き込み、そして、突き放すか、そこに読み切りの面白さがあると考えるが、恋愛関係が生じるとそこに問題が生じるのだ。
だからこそ、藤野は女性でよかったと思う。ここで、だったら藤野と京本どちらも男性だったらよかったのでないかと思う人がいるかもしれない。それはそれで、気持ち悪いだろう。そんなのはバクマンでおなかいっぱいだ。そんなルックバックは読みたくない。
世界一背中のシーンが多い漫画
表紙から最後までそうだが、この漫画は読者に背中を向けているシーンが多い。
当初は、京本の絵に驚愕し、追いつこうと努力する藤野の背中。
次に、京本が加わり、共に漫画を描き努力している二人の背中。
そして、京本がいなくなり、藤野一人で漫画を描いている背中。
この読者に向けて背中を向け、キャラクターが机に向かっているシーンが山ほどある。
これを見てじゃあ単調な漫画だなと思う人はいないだろう。一シーンごとに細かく違いがあり、キャラクターの努力が積み重なっているのが明確にわかる。
漫画はその世界に入り込めると楽しいと思う人は多いだろう。まるで自分も漫画のキャラクターの中の一人のように。
でも、この漫画は違う。確かに物語に入り込むのだが、一定の距離感があるのだ。リアリティな設定、リアリティなキャラ、ファンタジーではなく現実を舞台にした世界。そんな世界をまるで映画館で見ているかのような、あるいは、ただのその世界の一般人として存在していて主要キャラクターにはまるで見えない自分がそこにいるかのようだ。
登場人物たちの背中を見ているだけしかできない。そんな距離感がある。こちらの、読者の視点はまるで変わらない。いつか終わってしまうバッドエンドをはたから見ているだけしかできない、そんな状況に無性に悲しくなるのだ。
普通の漫画なら京本の死後、それを乗り越え笑顔で漫画を描き続ける主人公を描くだろう。だが、この漫画は最後の藤野が一人で再度立ち上がり漫画を描き続ける、その決意の表情も見せない。ただ見えるのは背中だけ。
この読後感を何と言ったらいいのだろう。初めての感覚だ。だけれどもそこがこの漫画の面白さなんだと何度も読み返して感じた。
まとめ
この駄文にまとめなんかありません笑
ただめちゃくちゃ面白かった。それを伝えたい、誰かと共有したくて文章を書き連ねました。
チェンソーマンもめちゃくちゃ面白いけど、ルックバックも違う意味でまた面白い。
ここまで読んでまだルックバックを読んでいないという変わった人はぜひ単行本を買ってみてください。
チェンソーマンも第一部終了からだいぶ時間が経ちましたが、いつかはまた連載再開すると思うのでこちらもまだ読んでいない方は今のうちにぜひ読んでください。